Human Welfare Association
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OUR HISTORY

Small, but not “Powerless”

微力でも、無力じゃない。

OUR HISTORY

団体の軌跡

ロヒンギャの問題はとても複雑で、世界的にもあまり注目されてきませんでした。しかし、現在バングラディッシュのロヒンギャ難民キャンプには、100万人以上の難民が暮らし、世界最大といわれる難民キャンプが、不幸にも存在しているのです。通常の感覚がある人間なら誰しも、”100万”という巨大な数字、そしてこれだけの深い絶望に触れればたちまち「自分じゃ何もできない」そう感じてしまうかもしれません。それでは実際に、できることは何もないのでしょうか。私たちはずっと、探してきました。

FOUNDATION OF BRAJ

FOUNDATION OF BRAJ

1994s

在日ビルマロヒンギャ協会(BRAJ) は1994年に7人の在日ロヒンギャによって結成されました。弾圧のために、ミャンマーから日本に逃れてきた7人のロヒンギャは、祖国の民主化のために日本政府に呼びかけをおこない、ロヒンギャ問題の発信と人権の回復のための活動をBRAJでスタートしました。

SLEEPING IN YAMANOTE LINE

SLEEPING IN YAMANOTE LINE

2000s~

強まるロヒンギャへの弾圧から、日本へ逃れてくるロヒンギャも増えていきました。日本に来るも、治療費や生活に困窮するロヒンギャは多く、そこでBRAJは金銭的、また物資の支援を開始します。BRAJの代表的人物であるHaroon Rashidは、自身も決して豊かではなく、移民や難民の仲間たちとシェアする部屋で寝る場所もままならない中、終点のないJR山手線で睡眠を取っては、家族のために働き、仲間のために活動を続けました。

ROHINGYA MASSACRE

ROHINGYA MASSACRE

2017s

2017年9月、ミャンマーでロヒンギャに対する大虐殺が起きました。男性はその場で虐殺、女性はレイプされ、赤子と村は焼き払われました。隣国のバングデシュには100万人以上の難民が避難し、巨大な難民キャンプが一夜にして生まれました。ミャンマーに残っていた在日ロヒンギャの家族たちも、もちろん難民となっていきました。そこで BRAJは食糧支援や、シャルターの建設などを、集めた会員費で行い、そして、子どもたちのために学校を設立しました。

REBORN AS NON PROFIT ORGANIZATION

REBORN AS NON PROFIT ORGANIZATION

2023s

2022年までBRAJの会員費で支援を継続していましたが、在日ロヒンギャのみなも決して生活に特別余裕があるわけではなく、特に、2021年に広まったコロナウイルスの影響は大きく、会費は思うように集まらなくなってしまいました。そこで、内輪の会費だけではなく、より多くの人に支援を呼びかけ、そしてロヒンギャの問題、それを超えて難民、戦争、平和について考えるきっかけを作るためにNPO法人 Human Welfare Associationは立ち上がりました。

MESSAGE

代表メッセージ

KONY(小西遊馬)

共同代表

KONY(小西遊馬)

ドキュメンタリー作家/ジャーナリスト

私が初めてドキュメンタリー作家としてお邪魔させていただいた場所が、紛れもなくこのロヒンギャの難民キャンプでした。私は現在24歳で、当時、無名の20歳の少年は安いカメラを持って、発表のあてもなく、バイトで稼いだお金でバングラデシュに向かいました。 2018年、虐殺からほとんど時間の経っていないキャンプは無秩序で、新しく逃げてきた人のためにシェルターを建てていたり、燃料のために辺りの林の木を切って担いでくる子どもたちの姿、長い列を作って国連の食糧支援を受け取る人々の様子を覚えています。そして、カメラもろくに使えない、誰でもない20歳の私は、100万人以上の難民たちが暮らす、一つの都市のような巨大な難民キャンプに足を踏み入れた時、途方もない無力感に襲われました。 私は、話を聞かせてくれたロヒンギャの方々に素直に打ち明けました。 「取材をさせてもらっているのに申し訳ないのだけれど、きっと私の映像はなんの力にもなれない。出すあてもないし、いい映像が撮れる自信もない。」 そうしたら、ロヒンギャの方々は口々に「ありがとう ! ありがとう ! 感謝します ! 」と言い初め、加えて、こう答えてくれました。 「そんなことは問題じゃない。来てくれた、それが希望になる。 遠路はるばるあなたが来てくれたということで、私たちは世界で忘れられていない、どこかで誰かが、私たちを想ってくれていることを知れる。 それは明日を生きる、希望になるんだよ。」 この言葉は、”この世界は生きるに値するのか”そう思い悩んでいた若き私を包み込み、そして何より、その後続けてきた、ドキュメンタリーの制作というものを信じさせてくれるきっかけになりました。 ドキュメンタリーの制作以外でも、私の人生を前に進めてくれた彼らに恩返しができないかと、NPOの設立を進め、代表に就任させていただきました。 どうか、皆様のお力を貸していただけたら、心より嬉しく思います。

長谷川 留理華

代表

長谷川 留理華

人権活動家

日本に来た当初は群馬県舘林に住んでました。 日本で小学校の卒業を経験し中学へ進学しました。言葉や言語が分からず、文化 の違い、環境の変化、人生一からやり直す気持ちでした。 中学校では三年間虐めや難勉に追われる毎日でした。いつもどうして私だけ?普 通に高校進学した後、大学進学を望んだ私に光は注がれませんでした。 なぜなら私には国籍がないからです。 無国籍者だから。 ロヒンギャだから母国を離れた。いつまでも纏わりつく?いつになったら解放さ れる?こんなことばかり考えてました。最終的に専門学校に行く事にしました。 専門学校でもヨーロッパ渡航の為のビザが降りませんでした。なぜなら無国籍者 だからです。ロヒンギャだから母国からは迫害を受け、いつか認められるだろと 期待していると次々と色んな物を諦めて生きてきました。 後どれだけのものを諦めなくてはなないのだろうか?ロヒンギャだから、見た目 が違うから、外国人だから。なぜ私ばかり? その後は主婦と自営業の傍ら、裁判所や弁護事務所などで翻訳家として活動して きました。 そんな時、2017年にバングラデシュへ逃亡して行く100万人難民ニュースが飛び 込んで来て、自分にも何らかの形で支援を出来たらと思ってました。難民キャン プにいる難民の方々も『どうして私だけなのか?なぜこんな悲惨な毎日生きなく てはならないのか?』こんなことを考えながら生きているのではないでしょう か。彼らの失ったものは、どんなものでしょうか? 家族?友達?財産?時間?思い出? 彼らが失ったものを埋めてあげることは出来ません。 しかし、これから築く新しい人生を、サポートすることはできるはずです。 私に出来る事は全て妥協せず、頑張って参る所存です。 どうか、皆様の力もお借り出来ればと思っております。 よろしくお願い申し上げます。

「なぜ自分だけ、これだけの悲惨な経験をしなければいけないのか」

「こんなにも辛いのなら、生きていない方が楽なのではないか」

そんなふうに、
私たちは誰しもが、”生きることの悲しみ”を抱えながら 生きています。

いつの間にか、明日を信じれなくなったこと。
いくつもの眠れない夜を過ごし、目を閉じたら、
全てが静かに終わってしまったらと思ったあの日のこと。

そんな時に私たちを救ってくれたのは、決して大きなことではなく、
いつでも、ささやかな誰かの優しさや、この世界の小さな美しさでした。

大きなことでなくていいのです。

「最近は元気してる?何かあったら言ってよ。」
「気晴らしに海にドライブでも行こうよ」

そう誰かが声をかけてくれた、あの時のように。

あなたの優しさで、笑顔になれる人たちがいます。